円日
こんにちは。
ナインです。
本日も本の紹介です。
今回紹介する作品は
『葉桜と魔笛』
です。
太宰治の作品です。
この作品で太宰の作品について書くのは5作目になります。
ネタバレしているのでお気をつけください。
あらすじ
桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。――と、その老夫人は物語る。――いまから三十五年まえ、父はその頃まだ存命中でございまして、私の一家、と言いましても、母はその七年まえ私が十三のときに、もう他界なされて、あとは、父と、私と妹と三人きりの家庭でございましたが、父は、私十八、妹十六のときに島根県の日本海に沿った人口二万余りの或るお城下まちに、中学校長として赴任して来て、恰好の借家もなかったので、町はずれの、もうすぐ山に近いところに一つ離れてぽつんと建って在るお寺の、離れ座敷、二部屋拝借して、そこに、ずっと、六年目に松江の中学校に転任になるまで、住んでいました——。
感想
『葉桜と魔笛』は太宰が結婚して精神的な安定があった頃に書かれた作品だ。
その時の精神状態が表れているのか、他の太宰の作品と比べると、どこか優しさや、余裕があるように感じられる。
さて、そんな『葉桜と魔笛』だが、大多数の人の一番印象に残るところは、やはり口笛の主の正体だろう。
作中では父か、または本当に神かと意見がわかれた。
現実的なのは父だが、もし神なのだとしたら、私はそちらの方が神秘的で好きだ。
だからこその「魔笛」なのだろう。
口笛の主の正体もいいのだが、私の中で一番印象に残ったのは青春のあり方だ。
昔どこかで聞いたことがある。
「青春の二文字の中にも月日がある」と。
青春は限りあるものだ。
真っ只中の人は気がつきにくいが、終わった後にハッキリとそう感じられる。
気がついたときに終わっているのが青春だ。
一つ間違いを正そう。
実際には、「春」の中にはきちんと「日」が部首としてあるのだが、「青」の中の「月」は部首ではない。
「青」は単体で「青」なのだ。
さらにいうなら、「青」の中にある「月」の部分は「円」が変化したものである。
そのため正確にいえば、「青春の二文字の中にも円日がある」となる。
もし使う場合、間違えないように気をつけたほうがいいだろう。
おわりに
最近少し忙しかったので、しばらくぶりの更新になってしまいました。
次回の更新も未定ですが、なるべく早く更新したいと思います。
どうぞ気長にお待ちください。
最後までお読みくださりありがとうございます。