変遷


こんにちは。

ナインです。

本日も本の紹介です。

今回紹介する作品は

 

『喫茶店にて』

 

です。

荻原朔太郎の作品です。

大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称されています。

 

代表作は、1917年2月刊行の処女詩集『月に吠える』でしょう。

名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

続いて1923年1月に『青猫』を刊行し、これは『月に吠える』と並ぶ朔太郎の代表作とされています。

『喫茶店にて』は随筆なのでネタバレとかはありません。

あらすじ
  先日大阪の知人が訪ねて来たので、銀座の相当な喫茶店へ案内した。学生のすくない大阪には、本格的の喫茶店がなく、珍らしい土産話と思つたからである。果して知人は珍らしがり、次のやうな感想を述べた。先程から観察して居ると、僅か一杯の紅茶を飲んで、半時間もぼんやり坐つてる人が沢山居る。一体彼等は何を考へてゐるのだらうと。一分間の閑も惜しく、タイムイズマネーで忙がしく市中を馳け廻つてる大阪人が、かうした東京の喫茶店風景を見て、いかにも閑人の寄り集りのやうに思ひ、むしろ不可思議に思ふのは当然である。私もさう言はれて、初めて喫茶店の客が「何を考へて居るのだらう」と考へて見た。おそらく彼等は、何も考へては居ないのだらう。と言つて疲労を休める為に、休息してゐるといふわけでもない。つまり彼等は、綺麗な小娘や善い音楽を背景にして、都会生活の気分や閑散を楽しんでるのだ——。

感想
 この作品が書かれた当時、本格的の喫茶店は大阪にはなかったらしい。

そんな大阪から知人が訪ねてきたので、せっかくなので喫茶店を案内すると、その知人はこの人たちは何をしているんだろうという、当然と言えば当然の疑問を返してきた。

私はあまり喫茶店を利用する人間ではないが、確かに知人の疑問もわからなくはない。

というよりも、今まで意識したことがなかっただけで、一度意識してみるとその疑問は私の胸中の少なくない部分を支配した。

もちろん今と書かれた当時では時代が違うので、様々違うことがあるのはあたりまえだ。

茶店のあり方一つとっても、当時と違い、今は大阪にも本格的の喫茶店は多数存在するし、それだけでなく、全国に本格的の喫茶店は存在するだろう。

まあこの話は一先ず置いておこう。

今問題となっているのは喫茶店を利用している彼らは何を考えているか、という事だ。

『喫茶店にて』では何も考えて居ないと書いてある。

なるほどたしかに。

昔はそうだったのかもしれない。

何も考えずに喫茶店を利用して、「綺麗な小娘や善い音楽を背景にして、都会生活の気分や閑散を楽しんでるのだ」ろう。

しかし私は、今は、現代はそうではないのではないかと思う。

それと同時に大きな部分も変わってないと思う。

今でも喫茶店はゆっくりできる場としての利用が多いだろう。

だが中には、パソコンを開いて一心不乱にキーボードを叩いている人も見かける。

何も考えて居ない場に仕事が持ち込まれているのだ。

仕事とは、ゆっくりの対極にある存在のようなものだと私は考えている。

ライフスタイルが変わっていく世の中だ。

ゆっくりの場に仕事を持ち込むのは悪いことではない。

しかし少し昔に戻って、喫茶店でくらいはもう少し何も考えないで居てもいいんじゃないかと思うし、少なくとも私はそうであってほしいと考えている。

おわりに
 次回の更新は木曜の予定です。

お楽しみにお待ちください。

 

最後までお読みくださりありがとうございます。

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