巧妙に仕組まれた?
こんにちは。
ナインです。
本日も本の紹介です。
今回紹介する作品は
『死屍を食う男』
です。
葉山嘉樹の作品です。
葉山の作品は『セメント樽の中の手紙』に続いて二回目の紹介となります。
前回はプロレタリアの作品でしたが、今回はうってかわってホラーです。
タイトルから大体の想像がつくとは思いますが、そういったお話です。
タイトルがネタバレしているのでネタバレありです。
あらすじ
いろんなことを知らないほうがいい、と思われることがあなた方にもよくあるでしょう。
フト、新聞の「その日の運勢」などに眼がつく。自分が七赤だか八白だかまるっきり知らなければ文句はないが、自分は二黒だと知っていれば、旅行や、金談はいけない、などとあると、構わない、やっつけはするが、どこか心の隅のほうにそいつが、しつっこくくっついている。
「あそこの家の屋根からは、毎晩人魂が飛ぶ。見た事があるかい?」
そうなると、子供や臆病な男は夜になるとそこを通らない。
このくらいのことはなんでもない。命をとられるほどのことはないから。
だが、見たため、知ったために命を落とす人が多くある。その一つの話を書いてみましょう。
その学校は、昔は藩の学校だった。明治の維新後県立の中学に変わった。その時分には県下に二つしか中学がなかったので、その中学もすばらしく大きい校舎と、兵営のような寄宿舎とを持つほど膨張した。
中学は山の中にあった。運動場は代々木の練兵場ほど広くて、一方は県社○○○神社に続いており、一方は聖徳太子の建立にかかるといわれる国分寺に続いていた。そしてまた一方は湖になっていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が溺死するならわしになっていた――。
感想
前に紹介した『セメント樽の中の手紙』とは随分と趣が異なっている。
この『死屍を食う男』を読むと、葉山はホラーが書きたかったのではないか、と思わせるほどの完成度である。
人食いは確かに問題だろう。
だが「そしてまた一方は湖になっていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が溺死するならわしになっていた。」の方がよっぽど問題なのではと思うのは私だけだろうか。
しかしこれが、人食いによって意図的に仕組まれているものだと考えたらどうだろうか?
どんな理由があるかはわからないが、ここでは火葬ではなく土葬によって死者を葬っている。
この土葬が人食いには都合がよかったのだろう。
なんとか事故死を装えば、怪しまれることなく人を食らうことができるからだ。
そして人食いが選んだのが溺死だ。
それが続き、毎年一人づつ溺死するというならわしができたのではないだろうか。
もしくはこのならわしを利用していたのかもしれない。
セコチャンの死も、呪いということで処理されたが、とても納得できるものではない。
人食いが仕組んでいたという方がまだ現実的であると私は思う。
おわりに
葉山嘉樹の作品は二回目でしたが、このままシリーズ化しようか悩みますね。
今のところ予定はありませんが、この先何回か紹介することがあればシリーズ化しようと思います。
次回の更新は新コーナーです。
是非お楽しみにしていてください。
最後までお読みくださりありがとうございます。