【特別編】『天気の子』あれこれ


お久しぶりです。

ナインです。

前回の更新からだいぶ間があいてしまいました。

申し訳ありません。

とくにケガや病気をしたというわけではありません。

純粋に忙しくて書く時間がとれませんでした、すいません……

 

そんな今回は、絶賛公開中の映画

 

『天気の子』

 

についてあれこれ書いていこうと思います。

みなさんはもうご覧になりましたか?

賛否両論あると思いますが、私は面白いと感じました。

思いっきりネタバレしているので、お気を付けください。

あらすじ

「あの光の中に、行ってみたかった」

高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。

しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。

彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。

そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。

ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。

彼女には、不思議な能力があった。

(『天気の子』公式サイトより引用)

感想・考察

新海誠監督は、『秒速五センチメートル』や『君の名は。』といった作品において、美麗なアートワークによって支えられた象徴描写を通して、鑑賞者に情緒的な映像体験をもたらしてきた。今回の『天気の子』も、その優れた「ルック」は健在である。したがって、純粋にストーリーを追うだけでも、観客はその映像的な質の高さをもって作品を十分に楽しむ事ができる。しかし、それでは従来の作品群への称賛をなぞるだけになってしまう。そのため、従来の作品群とは一線を画す『天気の子』に見受けられる新海作品の進化を紐解いていきたい。

 

 『天気の子』が従来の新海作品と異なるのは、テーマ解釈の多様性であると考える。新海誠監督は、優れた象徴描写の中にキャラクターの心理を落とし込んできたが、今回はその部分的な象徴描写が連鎖していくつかのテーマを構築しているように感じられた。したがって、作品をより深く体験するための情緒的労力を、今までよりもさらに視聴者に要求しているように思われる。そして、これが作品への賛否が今までの作品よりも明確に二極化してしまう一つの要因であろう。テーマ解釈が多様化したことによって、受け手はより深部まで作品を楽しむことができるようになったといえるが、同時により労力を割くことになった。この部分に否がある方が多いのではないだろうか。これは多様化におけるある種の弊害ともいえる。

 

 『君の名は。』と『天気の子』には、シャーマニズムが強く見受けられる。『君の名は。』憑依型(トレース)、『天気の子』は脱魂型(エクスタシー)と、とらえることができる。それぞれの物語は「結び」そして「解放」へと収束していく。このように、『天気の子』は過去の作品と対比することができるが、本質的なテーマの解釈は『天気の子』において独立しているように思われる。

 

 『天気の子』をより深く体験するための補助線となる象徴描写は二種類存在する。そして、そのどちらにおいても、象徴の主体はヒロインの陽菜である。

 

 第一に、日本の象徴としての役割である。日本の象徴とは、すなわち天皇制のことだ。『天気の子』は2019年7月の公開となった。2019年には改元が行われ、令和という年号に変わり、7月には参議院議員選挙が行われた。この過渡期に争点となった問題の一つに、女性天皇及び女系天皇問題がある。ここでそれらの問題への言及はしないが、前述したようにヒロインの少女にシャーマニズムを担わせるという事に、現代におけるシャーマニズムの継承者としての天皇家の在り方が喚起される。また、ストーリー終盤に雲の上で主人公とヒロインが巡り会う印象的なシーンがある。作中で、雲の上は彼岸だということも明示されており、彼岸とはつまりあの世のことである。そしてこの構図は呪術的逃走譚としてのイザナミの黄泉下りを彷彿とさせる。さらに、その逃走譚を導いた存在が夏美、圭介、凪の三名である。この三名を「三枚の御札」ととらえるならば、この黄泉下りの構図が説得力を増すだろう。このように、日本神話と縁の深い天皇家とセレモニーを担う陽菜の存在を重ね合わせる事で、観客は女性天皇の是非を推察する事が出来るのである。

 

第二に、新海監督自身の投影である。『天気の子』における最も具体的な象徴描写は、「魚」と雲の上への脱魂である。作中で降雨が具体的な魚を象っていた。「魚」は古今の描写において、しばしば「言葉」の象徴とされる。そして、その「言葉」が全身を取り巻いて少女が雲の上に脱魂するという構図は、『君の名は。』の大ヒットによって意図せず雲の上の存在となり、さまざまな空間において「言葉」を浴びせられる事となった新海監督自身を喚起させる。そして、その少女が代償を伴いながらも他者のためにわずかな晴れ間を生み出す姿は、葛藤と戦いながらも2時間というわずかな祝福を映画という形で創り出すアニメーターに酷似している。

 

 これらの構図を補助線にして『天気の子』を観ることで、観客はより深く情緒的な映像を体験できる。いずれの構図においても、「東京を水没させるような災禍につながるとしても自分のために祈れ」というメッセージ、そしてそのメッセージを受けても「他者のために祈ることをやめない」あるいは利己と利他を統合する少女の横顔は、狂った天気、狂った社会への少しの希望をあらわしているのだろう。

おわりに

これを読んでみなさんの『天気の子』へのイメージはどう変わったでしょうか。

ストーリーをなぞっていくだけ、描写を眺めるだけ、音楽をきくだけ。

それだけでも十分に楽しめる作品だと思いますが、もっと先まで考えたら、より楽しむことができると思います。

もうひとつ、上では書いていないのですが、『天気の子』では主人公が色々と法に触れるようなことをします。

もちろん犯罪を推奨しているわけではないのですが、新海誠監督がなぜそんな描写を入れたのか考えると、等身大の男子高校生を表現しているのではないかと思います。

思春期真っただ中、多感な男子高校生が、大切なもののために自分を顧みずに行動する。

これ以上ないと思えるくらいにうまい表現方法だと私は思いました。

もうひとつ、「逃避」というテーマについて。

『天気の子』ではいたるところに「逃避」を想起させるような描写がでてきます。

上で書いたように、「黄泉下り」や「三枚の御札」はもちろん、主人公の「家出」や警察や児童相談所からの「逃走」も「逃避」といえます。

そしてなにより、メイン楽曲の一つでもある「グランドエスケープ」もまさにタイトルから「逃避」を表現しているといえます。

「逃避」というテーマがもつ意味を考えるのも楽しみ方の一つでしょう。

最後に、作中に登場した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでみるのもいいと思います。

当然ですが、ところどころ『天気の子』に通ずる箇所があり、この作品を読むことによってより深く『天気の子』を楽しむことができると思います。

それを抜きにしても純粋に名著です。

そして「家出少年のバイブル」でもあります。

以上終わりです。

 

上にも書いたように、『天気の子』には多様な解釈の仕方があると思います。

私が書いたことが全てではないので、みなさんも自分なりの解釈の仕方をしてください。

 

次回の更新は未定です。

またお待たせしてしまったらすいません…… 

 

最後までお読みくださりありがとうございます。

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新海 誠
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