『何者』考察


こんにちは。

ナインです。

今回は簡単にですが考察記事を書いていこうと思います。

考察する作品は、著者「朝井リョウ」さんの

 

『何者』

 

です。

 2016年には映画が公開されましたね。

 2017年には舞台化もされたようです。

今回は考察記事なので、PCで読む方で考察を読みたくないとう方の為に考察部分は閉じておきます。

それではあらすじから書いていきます。

あらすじ

就活の情報交換をきっかけに集まった、拓人、光太郎、瑞月、理香、隆良。

ある日5人は理香の部屋を「就活対策本部」として開くことにした。

しかしそれぞれが抱く思いが複雑に交差し、徐々に人間関係が変化していく。

やがて内定をもらった「裏切り者」が現れたとき、これまで抑えられていた妬みや本音が露になり、ようやく彼らは自分を見つめ直す。

人として誰が一番価値があるのか?

そして自分はいったい「何者」なのか?

いま、彼らの青春が終わり、人生が始まる――。

考察

朝井リョウの作品である『何者』の作品論を映画化作品と比較しながら以下の視点から考察する。

1.SNSドラマツルギー
2.モラトリアムと日本人の意識
3.映画における演出の相違点

1.SNSドラマツルギー

この作品の主人公はさまざまな役割を「演じる」。

最も象徴的なのは演劇の活動だが、その他にも大学生としての自己、社会人として就職活動をする自己、観察者としてSNSで発信する自己というように、社会的な役割を入れ替わり演じている。

この役割の相互作用によって、主人公は揺らぎを孕みながらも他者との関係を維持し続けてきた。

しかし、SNSでのやりとりが明らかになったことにより、その関係は崩壊してしまった。

役割距離が混線してしまったことで、関係が崩壊してしまったということである。

このように、この作品では、SNSが情報交換手段として有効なツールとなる反面、社会的関係を崩壊させる恐れがあるものとして描かれている。

人間はさまざまな役割を演じなければ、社会的関係を構築できない。

そのため、主人公を含む人間に多面性があることは当たり前と言えよう。

そうしてストーリーを考えると、主人公の二面性だけでは「就活仲間」の関係は崩壊しなかったはずである。

主人公の二面性にSNSの二面性が加わったことで「就活仲間」の関係が崩壊してしまったのである。

このように考えると、この作品は人格の二面性というより、SNSの二面性について警鐘を鳴らしているように思われる。

また、理香が「『私、あんたはもうひとつのアカウントにロックかけたりツイートを消去したりなんかしないってわかってたよ』」「『あんたは、誰かを観察して分析することで、自分じゃない何者かになったつもりになってるんだよ。そんなの何も意味ないのに』」と指摘している。

主人公は「裏のアカウント」をロックできないのである。

つまり、理想の自分を演じるためには、他の役割からそれを切り離さなければならないのに、モラトリアムの中にいるため理想の自分を他の役割から切り離すことができないということである。

ここでは、「アカウントのロック」というインターネット上の具象を巧妙に用いることによって、ドラマツルギーとそのジレンマを上手く表現していると考える。

このようにこの作品は社会学的な観点からも非常に興味深い内容になっているように思われる。

2.モラトリアムと日本人の意識

 この作品が大学生活や就職活動をある種のモラトリアムとして捉えていることは明らかである。

この猶予期間を表現するものとして私が注目したのが「痛い」という言葉である。

日本人はモラトリアムを批判的に解釈するときに、しばしば「痛い」という言葉を用いる。

この作品においても、理香が拓人の内面を指摘する重要なシーンで「銃口のような目がふたつ並んで、こちらを見ていた。

『みんなやさしいから、あんまり触れてこなかったけど、心のどこかではそう思ってるんじゃないかな。観察者ぶってる拓人くんのこと、痛いって』」とあるように「痛い」という言葉で表現しているだけでなく、わざわざ倒置を用いて強調までしている。

この部分は一見凡庸な表現である。

しかし、前半の「銃口のような目がふたつ」という直喩には、攻撃的かつ致命的なわかりやすい象徴である「銃」とともに、「二年目になっても、内定が出ない」という現実的な批判と「観察者のような振る舞いが痛い」という感情的な批判の二つが込められている。

さらにそれらが、二つあるものとしての「目」と掛けられており、分かりやすくも多層的な興味深い表現になっている。

また、後半部分には、直情的な発言の中にも、自然な倒置強調が用いられており、わかりやすくも、的確な攻撃が主人公に加えられていることが伝わる表現になっている。

ここで注目した「痛い。」という言葉であるが、日本人は古来、この言葉を持ってさまざまな状態を批判してきた。このことを顕著に読み取れるのが、『枕草子』である。

枕草子』の『かたはらいたきもの』において清少納言は「傍ら痛し」という言葉をもって、さまざまな事柄を批判している。

このことから、日本人が昔から「痛い。」という言葉に馴染みを持っていたことが読み取れる。

こうして用いられてきた「痛い。」という言葉であるが、現代においては、モラトリアムの行動を否定的に解釈するときにしばしば用いられる。

近年、モラトリアムを象徴する言葉として「中二病」ないしは「厨二病」という俗語が流行している。

これに対する最も普遍的な回答は「痛い。」であろう。

このように、日本人はモラトリアムに対して潜在的にネガティヴなイメージを持っていることが多い。

『何者』では、このような日本人の意識が「就職活動」や「SNS」を通して効果的に表現されていると考える。

 

 

以下は映画の内容に触れているのでご覧になる際はご注意ください。

 

 

3.映画における演出の相違点

この作品では文字媒体である小説と映像媒体である映画とで設定が変更されている場面がいくつか見受けられる。

なかでも、印象的なものが、主人公である拓人の心情と現実の隠蔽である。

小説では冒頭の部分から拓人の所謂観察者としての側面が見受けられるが、映画ではその部分は隠されており、終盤に明らかとなるような演出がされている。

私はこの演出に映画と小説の相違点が顕著に表れていると考える。

小説において読者は、主人公の行動と内面の錯綜を、さまざまな文学的な表現から楽しむことができる。

たとえば、小説には、拓人が光太郎の音楽サークルを知ったときを「串焼きの盛り合わせは、一度すべての具材を串から抜くのがスタンダードだと知ったのも、あのときだった。」と表現している。

この表現からは、主人公が同居人とその行動を肯定的に捕らえていないことが読みとれる。

また、「大学生の体験」として特徴的な具象をとらえており、物語を引き立てるのに効果的な表現となっている。

このような表現を反復的に味わうことのできる小説と違い、映画では細部まで表現することができない。

そこで、その欠点を代替的に補う演出として、終盤での情報公開という手段が取られている。

映画の終盤では、劇中に出てきたさまざまな事象を主人公がどう解釈していたのかを、順序に沿って回想として描かれている。

これによって、鑑賞者は主人公の二面性を理解し、その意外性と気味の悪さのようなものによって作品に引き込まれるのである。

さらに、その後すぐ、主人公が就職活動二年目であるという意外な事実が明らかとなる。

これらの印象的な情報公開によって作中に散りばめられた伏線が回収され、鑑賞者は高揚を味わうことができる。

このクライマックスがこの映画において最も魅力的な要素であると考える。

このように、この作品において、小説では細やかな表現を持続的に味わうことが可能であり、映画では作品の根幹となる仕掛けを爆発的に味わうことが可能である。

つまり、小説と映画には相違点があり、それぞれに対照的な魅力があるということである。

おわりに

いかがでしょうか?

あまり長くなるのもあれかなと思い、これくらいの量できりあげました。

次回以降の考察もこれくらいの長さで書いていこうと思っています。

次回もぜひお読みください。

 

最後までお読みくださりありがとうございます。

何者
何者
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