自尊・利己


こんにちは。

ナインです。

本日も本の紹介です。

今回紹介する作品は

 

『鼻』

 

です。

またまた芥川シリーズです。

これで第4弾です。

最近芥川作品ばかり紹介していますが、お気になさらないでください……

 

『鼻』は芥川作品の中でも特別な作品といえるのではないでしょうか。

この作品が夏目漱石の目に留まり、称賛を受けたことにより、作家で生きていく転機になったといえるでしょう。

ちなみにですが、『鼻』の元となった作品として、『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」の二作品があります。

こちらも合わせてお読みいただくと、『鼻』をより一層楽しめると思います。

今回もネタバレありです。

お気をつけください。

あらすじ

禅智内供は長い鼻を気にしていた。

池の尾(現在の京都府宇治市池尾)でそれを知らない者はいないほどには有名であった。

長さは15cm以上あり、上唇の上から顋(あご)の下まで下っている。

形は元も先も同じように太い。

いわば細長い腸詰め(ソーセージ)のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。

長い鼻はもちろんのこと不便なのだが、それだけでなく、この鼻を笑われることによって自尊心を傷つけられていた。

しかし内供は僧侶の身ということもあり、内心では鼻のことを気にしながらも、それを表に出すようなことはしていなかった。

ある日、弟子のひとりが知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。

早速その方法を試してみた内供は、見事鼻を短くすることに成功するのだが――。

感想

「もう誰も哂うものはないにちがいない」このセリフが、作中二回でてくる。

このセリフから、内供は心の奥底では、鼻を哂われるのを嫌ったのではなく、哂われることそのものをきらったのではないかと考える。

 

一度目は鼻が短くなったとき。

たしかに今まで哂われていた原因を取り除いたことで、このような気持ちがでてくるのは納得できる。

しかしいざ鼻が短くなっても、以前と変わらずに哂われることとなる。

なぜ哂われる原因となっていた鼻が短くなったのに、変わらず哂われるのか。

それは傍観者の利己主義によるものだ。

本文中にも「傍観者の利己主義をそれとなく感づいた」とあるように、人間は誰かしらの不幸が解決すると、もう一度その人に不幸に陥ってほしいと思うようになるのだ。

多かれ少なかれ経験した方もいると思われる。

この「傍観者の利己主義」が、『鼻』のメインテーマといえ、芥川がこの作品で書きたかったものの一つだろう。

 

話を戻すが、「もう誰も哂うものはないにちがいない」というセリフがでてくる二か所目は、内供の鼻がもとの長さに戻ったときだ。

あれだけ気にしていた長い鼻がもとの長さに戻ったのに、短くなったときと同じようなはればれとした気持ちになる。

繰り返しになるが、鼻を哂われるのではなく、哂われることによって自尊心を傷つけられたことがわかる。

ここから、「自尊心」がもう一つのメインテーマであることが窺える。

おわりに

今回も考察っぽくなってしまいました……

芥川作品を紹介するとなるとやはり深いところまで書きたくなってしまうので、どうしても感想というより考察っぽくなってまいます……

みなさまもあまり触れないでいただくと幸いです。

 

この作品は『羅生門』と同時期に発表された作品です。

こちらは羅生門と比べてみても、明るい感じの内容になっていますね。

そんな関係で次回は『羅生門』について書いていこうかなと思います。

また芥川作品かよと思うかもしれませんがお許しください……

 

最後までお読みくださりありがとうございます。

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