よし悪し
こんにちは。
ナインです。
本日も本の紹介です。
今回紹介する作品は
『化学者とあたま』
です。
物理学者であり作家である寺田寅彦の作品です。
あまりこの作品を知っている人はいないのではないでしょうか。
この作品はどちらかというと物語ではありません。
偶々読む機会があったので読んでみたのですが、色々と考えさせられることが多く、なるほどと思いましたので、紹介しようと思いました。
物語ではないのでネタバレはなしということで。
あらすじというのも変な表現ですが、そちらからどうぞ。
あらすじ
私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。
この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることはもちろんである。
論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁でなければならない。
感想
科学者のあたまはよくなくてはいけないが、悪くなくてもいけない。
そもそも「あたま」の定義があいまいである。
テストの点が良ければあたまがいいのか、機転がきいて臨機応変に対応できるのがあたまがいいのか。
まあ今回は正確な定義についてはおいておき、どちらの意味で捉えてもらってくれてかまわないと思う。
さて、何故科学者のあたまはよくなくてはいけないが、悪くなくてもいけないのか。
寺田曰く、科学者には論理をしっかりとまとめるためには正確でかつ緻密な頭脳を要するとのことだ。
だが常識の中にある不可解な疑点を見つけるには普通のあたまの悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪い、のみ込み悪い田舎者であり朴念仁であることの方がいいとのことである。
一見矛盾しているようにも見えるが、実のところ、求められている「あたま」の意味が違うだけで、矛盾はしていないのである。
まあ前提としてお勉強ができるという意味でのあたまの良さは必要になるわけだが。
おわりに
たまには物語以外の紹介もいいですね。
これからも時々紹介していこうと思います。
最後までお読みくださりありがとうございます。